<3> ひびき
 残響を最初に意識したのは、子供の頃に行った銭湯でのことだったと思う。髪を洗うとき目をかたく閉じると、だんだん水の音や話し声、そしてケロリン(たぶん)の洗面器のカコーンなど、銭湯のあらゆる音が渾然一体となって、独特の響きが聞こえてくる。僕はこれがとても好きだった。湯気の中で「響きは快」と刷込まれたせいか、同じ頃、今度は車がトンネルに入る度に、運転している父にクラクションを鳴らすようせがんでいた。もちろん目的はトンネルにこだまする音だ。中学になると、一ひねりした響きの楽しみ方を見つけた。体育館の隅に立てかけてある陸上競技用の大きなマットの前を通り過ぎるのだ。残響の豊かな体育館の中で、分厚いスポンジ製マットの近くだけは音が吸収されている。そのため、マットに近づくと左右の耳に響・無響のアンバランスが突然現れて、めまいのような感覚を覚える。夢と現の間に引っ張りこまれるようなアブナイ快感があった。

(c)ぽん田中 演奏活動を続けている現在は、ライブハウスやクラシック向けのホールから、学校の体育館まで、様々な響きの空間に出合える。また屋外でも、森の中で弾いた時など、木々が返す響きが意外なほど豊かで驚いたこともあった。一般に、適度な残響があると、聞き手にはマイルドな音色が届く。また弾く方も、基本的には風呂場の歌と同じ理由で、気持ち良く演奏できる。

 でも、馬頭琴はあえて残響の少ない場所で聞くのも乙なものだ。というのも、そもそもこの楽器の音色は、残響とは無縁の遊牧生活の中で熟成されてきたものだからだ。遊牧民の家=ゲルは、全体がフェルトで覆われているので、中はさながら無響室だ。しかしそこで奏でられる馬頭琴の音色は、一切の残響を吸収されてもなお、心に響くのである。

嵯峨治彦のおうまさんといっしょ
 <3>ひびき
2002/01/25

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